ときの森 | デイサービスときの森 - デイサービスときの森 | 奈良県御所市


2019年09月10日

朝の挨拶⑵

私のときの森での朝の日課は、挨拶。
朝ときの森に来られる方一人一人に朝の挨拶を交わすこと。
これが最も大事にしている日課である。
「ここに来るのが待ち遠しくてなあ・・寝られへんかったわ」
「日曜日は嫌いや!ときの森ないから。」
そういううれしい言葉をいっぱいいただくのではあるが、中には、
「朝、しんどくてもっと寝たかったのに」
「今朝は嫁と喧嘩して気分が悪いのに」
「今日の服が気に入らない」
「腰が痛くて、膝が痛くて・・・」
多くの場合、朝の出がけというものは、何らかの小さな事件を起こしてるものである。
そういう事件を引きずりながら、頑張ってときの森にやって来られる。
 だからこそ、朝の挨拶が大切になる。
それも必ず「笑顔」の。
その笑顔が笑顔の連鎖を生み出す。
声をおかけした利用者はほとんど椅子に腰を掛けておられる場合が多い。
だから、私も同じ目線になる高さまでしゃがむ。わざわざ、正面に回って目があってから挨拶を始める。
もちろん笑顔と冗談はセットである。
皆さん、朝一番笑顔になられたら、その日の始まりは少なくとも悪い一日の始まりにならないことは間違いない。
そう思って今日も私は皆さんの周りをグルグルと回っている。

ある日の担当者会議でのこと
「毎朝ね、私が座ってると必ず施設長さんがやってきて『おはようございます!』と笑顔で挨拶してくださるんですよ、こんな私にまでですよ。もったいなくて涙が出てくるんです。ありがたいんです。
よし、今日も頑張れる。そう思えてくるんです。」
担当ケアマネージャーに話された。

挨拶とはそんな力があるのだ。
2019年08月30日

朝の挨拶⑴

挨拶はとても大切だ。
中でも、朝の挨拶は特に大切だ。
「おはようございます!」という言葉に含まれているもの・・・
「お早くからご苦労様でございます」という意味だそうだ。
挨拶は相手がいてするもの、そしてその相手をねぎらうための声かけなのだ。
 挨拶をしない人は論外だが、挨拶をしても誰に挨拶してるのかわからない人、顔も見せずにする人、目を合わすこともしない人、自分だけ言って立ち止まることなく行ってしまう人、笑顔もない挨拶をする人、声の聞こえない人等々。
私はこう思っている。
「おはようございます!
私はこのように元気でいますが、あなたはお達者でしょうか?」
会社の場合はこれに加えて
「私に何かご用はありませんか?」という意味がはいいてくる。
つまり、相手に敬意を表し、話をする糸口を作るためにとても大切で必要なツールなのだと。
少なくとも、朝一番に、わざわざ、相手を不快にはしないでほしいと願う。
2019年08月15日
Vol.4

「する側」「される側」

いったい、いつになれば「する側」と「される側」の二者択一か解放されるのだろう?
人という生き物は、瞬間瞬間、多くの判断や行動を選び続けて生きている。
その中には、当然自分では出来ないことも数多くある。
その場合、諦めるか、取りあえずやってみるか、誰かの手を借りるかする。
しかし、それ以外のことは、無意識のうちにやっている。
それは、いたって当たり前のことである。
ところが、介護現場では、奇妙なことが起こる。介護というステージに立たされた途端、多くの場合、「される側」に立たされてしまうのである。
多分、まだできるであろうことまで「出来る」のに「される側」に回される。
こうして人はよりできない人になっていく。
どうしてこんな奇妙なことが起こるのか?
それは、「される側」になったことがない人あるいは施設が、その「する側」として「すること」を決めるからだ。
この「する側」こそが、厄介なのだ。
2019年05月11日
Vol.3

人は承認されることを望む

私もそうだが、誰でも「人から自分の存在を認めてもらいたいものだ。(いい意味で)」
「歳を取ったから、もう何の望みもない。」
とよく言われるが、そんなことは絶対ない!
自分自身が歳を重ねてきたからこそ解る。
逆に若い頃のほうが、社会に対し、反逆していて、承認されるより、否定されたがっていたように思う。
「俺のことなんか、だれにもわからないだろう!」などとうそぶいて孤立を良しとしていた。それが格好いいと思っていた。みんなと同じことが迎合だと否定していた。
しかし、恋をして、結婚して、子供を持つと、肩をいからせ強がって見せたそんな自己中心的な自分が滑稽に思えるようになった。
「もっと素直に受け入れたら」見える世界も変わっていくものだ。
意地を張らず、素直に相手のことを想って、喜んでもらう、いや、一緒に喜びを分かち合うのだ。
そう、「否定」ではなく「承認」が人を幸せにするのではないだろうか。
2019年04月27日
Vol.2

私が送迎に拘ること

ときの森を始めて間もない頃だったと思う。
ある女性の利用者の方から朝の送迎前に電話があった。
「今日は用事があるから、デイサービスをお休みします。」
その方は姉妹二人で暮らしておられ、息子さんが奈良市内に住んでおられた。
ご本人はいたってお元気な方で、どちらかというと一緒に住んでおられる姉のほうが見守りを必要とするくらいであった。
だから、「用事で休む」と連絡をもらった時には、特別気にも留めず休みを受付けた。
今のときの森であれば、必ず家族とケアマネージャーに連絡を取って、自宅に伺いもするのだが、当時は、二人暮らしで姉もおられるからと、深く注意を払わなかった。
悔いの残る出来事が起きたのは、その日の夕方のことだった。
その利用者さんが亡くなられた。
その事実を知ったのは、翌朝のこと。
朝に、奈良に住む息子さんが訪ねてこられ、「実は先日、母が亡くなりました。」
事情をお聞きすると、昨日、お姉さまが一階の居間で亡くなっている妹さんを夕方発見したという。二階で寝起きされているお姉さまは、昨日は昼前から何度も一階に降りてきていたのだが、居間で倒れている妹には気づかなかったそうで、デイサービスを休むと聞いていたが、気が変わって行ったんだろうと思っていたらしい。そして、夕方になり居間に入って倒れている妹を発見した。
心筋梗塞だった。
私はその話を息子さんからお聞きして、すぐにお詫びを申し上げた。
すると「いえ、うちの母は、ときの森さんに行くようになって明るくなりました。いつ家に帰っても、ときの森さんの話ばかり言ってました。離れて暮らす私には本当にありがたいことでした。こちらがお礼を言わせていただきたいです。良くしていただきありがとうございました。」それからこう続けられた。
「きっと、母は体調が悪かったのでしょう。でも、大好きなときの森さんを体調がすぐれないから休むなんて、きっと言えなかったんでしょう。そんな気遣いをする人でした。」
最後に。「私は、ときの森さんに出会えて、母は幸せだったと思います。これまで、あんな嬉しそうな顔で笑う母を見たことがありませんでした。本当に最後に素晴らしい時間をいただきありがとうございました。」
話の途中から息子さんは泣いておられた。
そして私も。
私は思った。
「あの時、なぜ、家まで顔を見に行かなかったのか!」
「来なくていいから、出かけるんだから」と言われても行くべきだった。
『悔い』が私の胸を苦しくなるほど締め付けたこと、今でも忘れることができない。
その日以来、ときの森は「お休み」と言われても、必ずお顔を見に行くようにしている。
何もなければ万々歳!
もし、すこしでも異変を感じたら、どんなことしてでも「ときの森」にお連れするようにと。連絡がつかなかったら、つくまで何度でも尋ねるようにしている。
自分たちは、一人の高齢の方の命を預かっているのだ。
そのことを、片時も忘れてはいけない。
2019年04月12日
Vol.1

感動するということ

「ときの森さんって、いつも何かいろんなことされてますよねー」と、先日市役所にお邪魔した折、ある方から言われた。
確かに「この十四年、いろんなことをやってきたが、自分としては、それほど『いろんなことをやってきた』気はしていない。
それどころか、最近は、やり足らない気持のほうが強い。
その昔、「ときの森は、サプライズがいっぱい!」と言わんばかりに、いろいろな新しいことをやっていた。
オープンしたての十四年前のときの森は、デイサービスとしては何をするにつけ新しかった。
「サプライズ」は、相手の期待を超えたところにある、相手が思いもしないことをした時に生まれるものだ。
そしてそこに「感動」がある。
「感動」には、「うれしい」「幸せ」という「涙」もついてくる。
私は、今でも毎日そのことばかりを考えて生きている。